オホーツク観光の未来~流氷そのものではなく、流氷を育んだ オホーツク文化に着目~
■背景
1985(昭和60)年2月、外国大使ご夫妻が流氷観光で網走を訪れていた。網走セントラルホテルの宿泊棟のワンフロアーを貸し切り、厳重な警備体制が敷かれていた。当日の夜は、網走市長始め地元の皆さんが集い、和やかでにぎやかな歓迎の晩餐が同ホテルの大宴会場で催された。宴は同ホテルの調理部門がオホーツクの食材で美味しく、豪華な料理で盛りあがった。
その前年、1984(昭和59)年、網走市の経済部長に大場脩さんが就任した。前職の観光課長時代からの言説『①観光を網走の中心的産業として振興を図る②網走イコール刑務所のイメージから脱却するために流氷をメインに据えて売ってゆく』の2点が街の目標になり、大場部長の強いリーダーシップで実行に移された。東京銀座ナイン商店街の歩行者天国のイベントに、4トントラックで2トンの流氷塊を網走から輸送して、流氷をPRした。
その後、1991(平成3)年、流氷観光砕氷船「おーろら号」の運行開始、2015(平成27)年、オホーツク流氷館が天都山にオープンした。
冒頭の大使、流氷観光の訪問から、およそ40年の月日がたった現在、流氷の勢力は衰え、滞留期間は短くなり、温暖化で将来、流氷が訪れないのではとの危惧の声がささやかれている。オホーツク・流氷観光は今、曲がり角にきている。これからの10年・20年を展望して新たなるオホーツク観光の未来を創造しなければならない。
今から1500年前・5世紀頃、大陸のアムール川流域の人々と常呂や網走でクジラ・アザラシ・オットセイなど海獣狩猟を主たる生業としていた人々がオホーツク海の海路を縦横無尽に繰り、交易や文化交流が行われていた。その痕跡が史跡常呂遺跡群です。
このオホーツク文化は7・8世紀まで栄え、その後、擦文文化・トビ二タイ文化、そしてアイヌ文化へと繋がるのである。
1500年の時空を超えて、育んだオホーツク文化の聖地、史跡常呂遺跡群に観光のスポットライトを当てる。
今一つ、人口問題がある。昨年11月、人口戦略会議が発表した報告書では、将来的に「消減の可能性がある」とされるオホーツクの自治体は佐呂間・美幌などの14市町村が上げられた。北見を中心にそれぞれの町が相互に連携して、その消減を少しでも食い止められないか。このことも本プロジェクトで検討したい。
視点を鉄道に移すと、『単独では維持困難とする、黄色線区・石北線の存続のための抜本的改善策について』の問題がある。
これらの課題を私たちは孫子の代を見据えて、取り組まなければなりせん。今回、オホーツク・アドベンチャートラベルに常呂遺跡を組み込んだ旅行商品の開発に取り組む。
(本文のPDFファイル)
■取り組みのアプローチ ~ 次の資料を基に初期活動を展開する
1)アドベンチャートラベルで地域を活性化する
2)北見オホーツクATケーススタディ 常呂遺跡群 遠い時空のかなた7・8世紀に最盛期を迎えたオホーツク文化を体感
R07/05/13
アイティデザイン研究所
石北沿線ふるさとネットワーク
逢坂信治記
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