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世界史に刻まれた「石見銀山」 |
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1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルが来日する。彼は日本を「銀の島」と呼んだ。このことは山本兼一(著)「銀の島」 朝日新聞出版のページで詳しくのべた。
その「石見銀山」の遺跡をGoogle Earthで訪ねてみました。16世紀、日本の鉱業は世界に向ってその存在を発信していたことに、いま、驚きと誇りを感じます。 |
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■石見銀山の発見 | |||
石見銀山の起源は1526(大永6)年ごろに、博多の商人、神谷寿禎(やみやじゅてい)が石見銀山を発見したことに始まる。
日本海に船をこぎ出して沖をながめていたら、南山に光を見いだしたという。 仙ノ山は中国山地の北、日本海から直線距離で約6Km、標高537mのごく普通の山である。 東、つまり出雲に向かって高い山がないため、山の東端からは出雲と石見の旧2国を隔てる三瓶山が見え、さらに遠くには出雲大社があるあたりまで見渡され、夕日が没する日本海や中国山地などが見渡せる。 神谷寿禎が海上の船から見たのは仙ノ山である。 採掘がはじまり、仙ノ山から掘り出された銀鉱石は鞆ヶ浦(鞆ヶ岩の浦)の港へ積み出され、精錬前の鉱石を買う業者に売られた。 日本海の片隅がアジア全体のなかで脚光を浴びることになる。そしてアジアの経済圏を一変させることになるのである。 |
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■世界は大航海時代へ | |||
おりしも世界は、大航海時代に突入した。コロンブスのアメリカ到着が1492年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開発したのが1498年である。
1526年から始まる石見銀山の発見や、1533年の灰吹き法導入の動きは、まさにその28年から35年後のことである。 日本に銀が大量に生産されるようになったいう情報は、ただちに隣国の李氏朝鮮に伝わった。 1528(享禄元年)年には、倭の鉛鉄(含銀鉛鉄か含銀鉛)が密かに持ち込まれていたという。1538(天文7)年には、室町幕府の使僧と称するものが、銀8万両(800貫)を持参して、朝鮮王朝をびっくりさせている。同年には、「我が国(朝鮮)奸人が造銀の術を教えた」と指弾している。神谷寿禎に灰吹き法を教えた宗丹・桂寿のことである。 おなじころ、この情報は中国にも伝わった。明国は1430年頃から、大口取引が増すにつれて銀経済に入り、江南地方の土地税を銀で収納し、官吏や軍人の俸給を銀で支給するようになる。中国南部、東アジアにかけて、世界的に銀の需要が高まっていた。 石見銀山の開発もその刺激を受けて進んだ可能性がある。 |
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■倭寇の跳梁 | |||
当時、明国は海禁政策(鎖国)を取っていたが、国力の低下とともに、その取り締まりが弱まり、日本海や東アジア海域にかけて、倭寇が跳梁して、密貿易に従事するとともに、時には海賊行為に及んでいた。この時期の倭寇は中国人を主として日本人、朝鮮人、ポルトガル人、スペイン人などまで含んだ集団と云われている。この倭寇たちが、銀産出のニュースを知らないわけがない。彼らはそののち、中国産生糸と日本銀の貿易を主とするのである。
1543(天文12)年、大倭寇の王直が、鉄砲をもったポルトガル人を連れて、種子島に現れる。いわゆる「鉄砲伝来」である。その3年前の1540年ごろ、王直は日本と交易をして巨大な利益を収めていたことは、明国で話題となり、「籌海図編」などの緒書に記されている。 種子島は鍛治師が多くいる島であった。すでに「種ガ島鋏」が諸島のあいだでの名産であった。この鉄砲を買い取って複製品を造らせた領主・種子島時尭らによって、たちまちに戦国の日本に鉄砲が流布し、統一権力の成立を早めることとなった。 |
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■フランシスコ・ザビエルの来日 | |||
1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルが来日する。彼は日本を「銀の島」と認識していた。ポルトガルノ友人神父宛の手紙で、カスティリア人は「この島をプラタレアス諸島(銀の島)とよんでいる」と書いている。彼をはじめ、日本にやってきたイエズス会宣教師は、貿易商人たちを伴い、日本銀の貿易を行い、それを資金源にしたのである。
その後、ヨーロッパの地図に銀鉱山の明記がはじめて現れるのは、バルトメウ・ヴェリョの、1560年頃の「西太平洋図」と1561年の「太平洋図」「アジア図」で、石見あたりにポルトガル語で「ミナス デ プラタ(銀鉱山)」と書かれている。すなわち、日本は「銀の島」であり、その産出地は石見だったというのが、ヨーロッパでの1560年代の認識となった。 |
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■大内尼子の銀山争奪 | |||
当時、石見銀山を領国としていたのは、大内氏であった。すでに天文2年に神谷寿禎は銀100枚を上納していた。
天文8年には隣国大名の尼子氏に占領されていた銀山を奪回した、大内氏は、銀500枚を上納させている。 その戦時下も、銀山は稼働しており、上納金を増加させるだけの生産高を上げていたのである。 |
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■毛利・豊臣の時代 | |||
大内・尼子の争奪戦を経て、毛利氏の中国制覇とともに石見銀山も毛利氏の支配下に入った。毛利氏は支配下に入った石見銀山を、1562(永禄5)年、朝廷・幕府に献上して名目的御料所にして、その代官となることを申し出ている。その貢納として朝廷・幕府にそれぞれ銀100枚を進上している。御料所としてたの侵犯を防ぐとか、官位の名のりを貰うとか、中央に対する政治工作に銀山を利用したのであろう。
毛利氏は温泉津沖泊・銀山街道を開発したと言われている。この時代は温泉津・沖泊の港から銀は積み出されていたのである。 本能寺の変後の和睦で、たちまち豊臣秀吉は、銀山引き渡しを求めた。1597(慶長2)年、銀100枚を受け取っている。 その後、関ヶ原の戦いで、敗軍の総大将となった毛利氏は、さっそく、徳川氏に銀山を取り上げられて、大久保石見の守による直轄支配が始まった。銀山はいつも支配権力の標的となったのである。 |
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参照した文献 | |||
別冊太陽 石見銀山 世界史に刻まれた日本の産業遺跡 発行 平凡社
穂坂 豊 世界遺産石見銀山を歩く (歩く旅シリーズ 街道・古道) 発行 山と溪谷社 豊田有恒 世界史の中の石見銀山 発行 祥伝社新書 |
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