■バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争
小野寺百合子(著) 発行・共同通信社
「ストックホルムの密使」の構想を組み立てる資料の一つが本書であったと後書きで著者が述べています。
その詳細を知りたくて、本書を読みました。
著者の夫・小野寺信(スエーデン公使館付武官・大本営陸軍部兼任)が大和田市郎・駐スエーデン海軍武官のモデルで森四郎と行動を共にするコワレスキはイワノフ(注1)のようです。
ヤルタ会談の密約情報(注2)も出てきます。
なるほど、いくつかの事実が参考になっているようです。
(注1)イワノフ
三人目のイワノフは実はロシヤ人ではなくポーランド人で、しかもポーランド軍の優秀な参謀将校ミハール・リビコフスキーであることを夫は私に耳打ちしてくれた。彼は1939年(昭和14年)9月ポーランドがたった2週間のうちにソ連とドイツに攻略され分割されたとき、ルーマニヤ、ベルギー、オランダと逃げまわった末、リガにたどりついて日本の武官小野打さんを頼ったのであった。1940年(昭和15年)9月小野打さんがリガからストックホルムに移ることになったとき、彼もまたさまざまの苦労の末、再び小野打さんを頼って、ストックホルムの日本陸軍武官室にたどりついたのであった。その後小野打さんは駐フィンランド武官となってヘルシンキへ赴任されたが、彼は西村さんの許に残って情報提供者となったのであった。彼は満洲国に居た白系ロシヤ人と称して満洲国のパスポートを持っていた。それはリスアニヤに居た日本領事杉原氏の斡旋でベルリンの満洲国公使館から発行されたもののようである。
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イワノフは杉原氏の計らいでベルリンの満洲国公使館発行の満洲国のパスポートを所持していたが、同公使館の秋草俊大佐(ポーランドへ赴任の予定が不能となり、そのまま同公使館総領事の資格でベルリンに居た)が彼に好意を持っていないことを夫は知り、またスウェーデン政府が満洲国を承認していないことも不安であった。そこで夫はイワノフの身柄保護のため、在ストックホルム日本公使館に頼んで、イワノフに日本のパスポートを発行してもらった。当時の代理公使神田(こうだ)嚢太郎一等書記官は快く協力してくた。パスポートの氏名は「岩延平太」と夫が名付け、彼の事務所も日本武官室の中に移した。イワノフは今もそれを感謝している。
(注2)ヤルタ会談の密約情報
この筋の情報で忘れることのできないのは、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談のあとで報告してきた、ソ連の対日参戦約に関するものである。「ソ連はドイツの降伏より3ケ月を準備期間として、対日参戦する」という重大情報を、私は特に心して暗号に組んだことを覚えている。中央からそれについて別に何の返答もなかったが、私どもはそれは当然、中央に届いているものと思い込んでいた。事実はドイツの全面降伏が5月8日、ソ連の対日宣戦布告が8月8日であったから、まさにヤルタ会談の通りであったことを思い知らされたのであった。
出典:バルト海のほとりにて
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